2016年3月6日日曜日

あたらしい女川



久しぶりの女川へ。
ポスター展から約1年。女川の町にはポスターがまだ残っていた。





女川の海風と雨はさすがに強烈で雨ざらしのポスターは変色していた。



そんな女川ではポスター全集を持って
それぞれの店主にサインをもらうのがちょっとしたブームなのだとか。
本当に何がどうなるかわからない。


女川駅前がえらいことになっていた。
プロムナードができて、おしゃれになってジャズがかかっている。
まるでアメリカのどこかの海岸のよう。


仮設店舗から移った店も多々ある。
前の時のポスターをそのまま新店舗に貼ってくれている。
おしゃれなプロムナードには似合っていないがうれしかった。


プロムナードのもっとも海側には津波で倒れた交番が残っている。
気仙沼の陸にあがった船など、様々な被災地が
震災の跡を撤去する中、女川は残すことを選んだ。
「震災を思い出すから撤去してほしい」という意見も多々あったと思う。
その決断に敬意を表したい。


駅から出るとプロムナードの橋まではゆるやかな下り坂になっていて
そのまま海が見える。
防潮堤を作る町が多い中、女川は高台移転を選び、海が見えることを選んだ。
町の入口からまっすぐ海が見渡せるということに
女川の海に対する並々ならぬ覚悟が見えた。

プロムナードは女川っぽくない、という意見もあった。
ぼくも正直、そんな気持ちもある。
女川の中華料理店の金華楼で昼飯を食べていると
大将がこんなことを言った。

「プロムナード行った?あそこね、人がたくさん歩いてるの。
 女川でそういう光景を久しぶりに見てね。
 ああ、これが『まち』ってことか
 『まち』っていいもんだなあって思ったんだよね」

岡さんといい、やっぱり女川の人はいいこと言う。


人間と同じように「まち」にも健康というものがある。
女川は大怪我をしてしまった。
福島は大怪我をして病気になってしまった。
健康のありがたさは病気になってはじめてわかる。
女川の人たちの話は「まち」そのものが
普通でいることのありがたさを教えてくれる。

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