2021年12月31日金曜日

会社を辞める


2021年の最後の日の今日、20年間勤めた会社を辞める。今まで会社を辞めたことはなかった。部活も途中で辞めたことはなかった。まだ心が落ち着かない。時々、腹痛の波のように不安が襲ってくる。が、だいたいは清々しい気持ちである。


コロナ禍以降、会社にあまり行くことがなく、在宅勤務の日々が続いた。朝起きて、家で仕事をしているとあっという間に子どもが下校してもう4時かと気づく。起伏のない日常が時間を加速させた。人生のエスカレーターの速度が上がったのである。そして、突如、人生がまとまり始めた。私はもう45歳、でも、まだ45歳。おい、ちょっと待て、私は人生をまだまとめる気はない。エスカレーターから降りなくては。 そんな時、ちょうど8月ごろに早期退職の案内が来た。私は45歳でギリギリ対象年齢に入った。


辞めたい理由はいくつかあった。

1)自由に仕事をしたい

今まで仕事の誘いが何度かあった。しかし会社員なので受けられないことが多々あった。しかしぼくが個人であれば請けることができる。また、例えばお店をする、出版業をするなど何か違うビジネスもできる。会社は副業が禁じられていた。自由に仕事を請け、自由に仕事を作ってみたかったのである。

2)自由に作家活動をしたい

写真家としての活動、執筆家としての活動、それを自由にしたかった。会社員であるとどうしても表現できないこともある。自身でブレーキをかけていたところもある。それを取っ払いたかった。しかし、会社員であるから給料が入り、作家活動ができるという面もある。この問題はかなり私を悩ませた。

3)退職後も仕事をしていたい

定年退職後も仕事をしていたかった。それは、TCCの先輩コピーライターがおじいちゃんになっても仕事をしている姿が魅力的だからでもある。宮崎駿は43歳で「風の谷のナウシカ」を作った。黒澤明は「七人の侍」を44歳で作った。ドストエフスキーは59歳で「カラマーゾフの兄弟」を書いた。ホドロフスキーは93歳だがまだ映画を作っていてまだ伸びそうだ。クリエイターの退職年齢はもっと高くていいのである。しかし、会社にいると、45歳はもうベテランで50代になると引退間際の選手みたいな扱いになってしまう。ずっと作っていたかった。

4)一度、フリーランスになってみたかった

人生は一度きりだ。一度フリーランスになってみたかった。このまま会社員として定年を迎え、老後が始まってしまいそうだった。

とはいえ、コロナ禍で在宅勤務になり自由な時間も増えた。今の会社にいながらしたいことをすればいいではないか、とも考えた。そして、今まで会社はたくさんの自由を与えてくれた。会社でUFOを呼んだこともある。これ以上自由を求めるのはわがままだ。もう個人でやれよ、というレベルだ。このわがままのために、安定した収入を捨てていいのだろうか。とはいえ、このまま会社にいることが果たして安定しているのだろうか。「一社に頼っている方が危険だ。複数に頼る方がいい」とある人は言う。しかし、私が頼っていた一社はしばらくは盤石だろう。定年までまだまだある。早期退職にはまだ早い。そう結論付けた。


10月下旬、仕事で弘前に行った。弘前城から岩木山を見た時に「会社を辞めよう」と思った。こんな大きな岩木山から見ればぼくが会社を辞めるかどうかなどちっぽけなことに過ぎない。そんなことを思ったのか定かではない。あれだけ理詰めで考えたのに、最後は結局、人間は感覚で決断してしまうのだ。そのいい加減な意思決定にあきれもしたが、感心もした。早期退職の応募締め切りまで残り1週間ほどだった。

家に帰って早期退職のサイトを開いた。氏名、社員番号、生年月日、入社年月日を入力し、送信ボタンを押すだけでいい。今までのどんな会社の書類よりも簡単じゃないか。カチっと送信をクリックした。え、ほんとこれで終わり!? LINEのように送信取り消し機能があればしていたかもしれない。しかし、そんな機能はなかった。余韻も束の間、すぐに自分のPCに電通の中途採用募集のバナー広告が出てきた。





「結婚したまえ。君は後悔するだろう。結婚しないでいたまえ。君は後悔するだろう」とキルケゴールは言った。「会社にいたまえ、君は後悔するだろう。会社に残りたまえ、君は後悔するだろう」とキルケゴールは私に語った。いっそ、前向きな後悔を選ぼうではないか。もうこのタイミングで辞めなければずっと会社に居続けるかもしれない。 

私はエスカレーターからエイっと飛び降りた。自分の足で階段を上がりたかった。いや、階段を下がるかもしれないし、転げ落ちるかもしれない。でも、自分の足で何かを探したかった。 私は自由になってみたかった。そして、電通をやめた。

電通とぼくの関係は、海原雄山と山岡士郎のような関係だった。

「親父、そのやり方は違うだろう!」と歯向かってみたものの

「志郎、なっとらん」と一蹴される。

その繰り返しだ。ぼくの実力もなかったから仕方ない。しかし、入社して10年ほどして「商店街ポスター展」を成功させてから、親父がぼくのやり方を認めてくれた。そして、親父は士郎に一目置いてくれていたように思う。電通は厳しい親父だった。時には愛し、時には憎んだ。そんな親父に鍛えられた。今は感謝しかない。


今後はフリーのコピーライターとして生計を立てながら、執筆家、写真家として暮らしていく。このチャレンジが後世の電通人の一つの参考事例となるよう、ユニークな事例にしようではないか。





最後に電通生活20年を学んだすべてを込めて作った映像をご覧いただきたい。

それではまた遥か彼方の銀河系のどこかで。

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