パリ最後の日はルーブル美術館へ。
飛行機は夜の9時発。まだまだ時間はある。
ルーブル美術館はまだ行っていなかった。
心の底から行きたかったかというと微妙であるが、こういうとき精神貧乏性が働く。
パリまで来たのに名所に行ってないのはもったいない、という損得勘定。
パリに1週間近くいてベルサイユ宮殿にもまだ行っていないのだが、
この旅では行けそうもない。 (Louvre)

ルーブル美術館は混んでいる。
だから来るのを渋っていた。
親が列に並んでいるのをいいことに余裕の子供たち。
朝早く行ったので30分待ちでなんとか入場できた。
とはいえあまり時間がない。
丁寧に見ていくと1日はかかるだろう美術館を早歩きで。
とくに目のついたのがギリシア彫刻。みんな包茎である。
ローマ時代に入っても同じく包茎だ。
これだけ彫刻があれば絶対に1人はむけていたはずである。
それがここまで包茎だらけと何か裏があると考えざるを得ない。
ぼくは仮説を立てた。ギリシア・ローマ時代は包茎の方が価値があったのではないかと。
ルーブル美術館の中国語ガイドのおばちゃんと局部をともに撮ってみた。
話を「美」に戻そう。お目当てにやってきた。
ミロのヴィーナスである。
本物である。確かに美しいと思った。
この体の傾きがえもいわれない。
まっすぐ立ったものが多い中、
体をあえて傾けて作った人はなかなかやる。
左右後ろから見たミロのヴィーナス。
今まで見たことのなかった新鮮なアングルである。
ギリシャ彫刻はおもしろかった。
本当に人間そっくりで、こんな高い技術は数千年前にあったのだ。
絵よりも先に彫刻でそれがあった。
人間に似せるという行為は2Dよりも3Dでまず発達したのだ。
もうの1つ目玉、モナリザである。
アイドルの握手会のように大混雑している。
ようやくぼくの握手の番が回ってきた。
歴史的作品との距離3m。
人をすべて包み込むような顔。
笑っているのか、怒っているのか、
美しいけど、どこか怖くて、優しくて、
すべての感情がそこにあるような表情である。
背景は森と湖なのか、服の色が地味、使っている色数は少ないなど、
実物を前にして改めて気づく。
とはいえこの絵の予備知識がまったくなくてどこか名もない美術館に飾っていたら
ぼくは世紀の名作と思えたのだろうか。
絵でいうなら、ゴッホの方がよかったし、美術作品ということだったら、
ジェームズ・タレルの方がはるかに感動したし、うーん、
名作ってなんなんだろう。
ぼくの目の前をふと少女が入ってきた。
何だよ横入りしやがってと思いきや、ここは優先して見られる場所。
少女は盲目なのだ。

少女が泣いているように見えた。
モナリザそのものより、モナリザを見て盲目の少女が感動しているということに
感動してしまった。少女は一体、どのようにモナリザを感じたのだろう。
それでは、ルーブル美術館の隙を。
ガイドの説明をだらだら聴く子どもたち。
天井画を撮る子供たち。
きっと遠足でルーブル美術館に来てるんだろう。なんてうらやましい遠足。

二人でゲームをしているわけではなく、
DSがルーブル美術家のガイドになっているのである。
DSが世界の一流の場所で使われていて、日本人としてちょっぴり誇らしい。
絶対絶命にも程がある。
作品鑑賞に疲れ果てた人。とてもスティングに似ていた。
というわけで、ルーブル美術館の作品よりも、
ルーブル美術館に来ている人の方が気になって仕方がない病的な自分。