2012年8月15日水曜日

神殿

ここは、普段は決して入れない場所。
まるで、チベット仏教の聖地ラサの神殿ポタラ宮に足を踏み入れるような
イスラム教シーア派の聖地マシュハドのイマーム・リダー廟に入るように、
あいりん労働福祉センターに足を踏み入れた。


ここは、日雇い労働者の人々が仕事を得る場所。
毎日朝5時になると、仕事を探しにきた労働者と
あっせんに来た業者とでごった返す。まるで、日雇い労働の市場。
朝は活気があるが、昼間は閑散としている。
暑さをしのぐためにここで休んでいる人も多い。

ここは、バラナシ駅かデリー駅か。
ここは、もう、確実にインド。
日本にもインドのような場所があると、みなさん覚えていてほしい。



以前、この通りは細い路地で沿道にラーメンの屋台がぎっしりあったという。
ここで屋台を営業していたのではない。
ここでラーメンを仕込んで、なんば、心斎橋など繁華街に出て行ったという。
しかし、20年前、コンビニの登場により激減。
今は数台の屋台と、区画整理で広くなった道が残るのみ。



柵が三重になっているのがわかるだろうか。
茶色、緑、オレンジと。
柵からわかる釜ヶ崎の歴史。
まるで、遺跡の水道跡から歴史を推察する考古学のようでもある。

一番奥の柵は1970年代に建てられたもの。
釜ヶ崎で暴動が起こったとき、みんながこぞって警察署に投石をした。
その投石はつきることがなかった。
どうしてそんなに石が多いのかと調べてみると、
この線路の敷石を取っていたからであった。
というわけで第一の柵がつけられた。

次に、緑色の柵。
第一の柵を支えにブルーテントを建てる人が激増したので設置された。

最後に、オレンジの柵。
これは、放置車両防止の柵。
車をスクラップにするのに廃車料金を取られるようになってから、
この道に車が続々と捨てられるようになった。
 車の部品は売れるので、それを見過ごした。
車は分解されてここにたくさん放置された。



ここには暴動が多発するということで、路上に設置された防犯カメラ。
これが日本初の路上カメラだった。
今では、繁華街などで路上に設置された防犯カメラを見かけるが、
当時は、人間を24時間監視するなど人権問題だ、ということで騒ぎがおきた。

こんな防犯カメラひとつにも物語があるのだ。
そして、それを知っている水野さんの博学に驚く。





釜ヶ崎のど真ん中にある小学校、萩之茶屋小学校。
柵にそって鉄パイプがあり、その下には花がある。
鉄パイプの中には水が通るようになっていて、
時折、水が出る仕掛けとなっている。
実はこれ、花に水をやるようにみえるが、違うのである。
ここにブルーテントを建てられないようにするため。
誰かがテントを立てると水を出し、床を水浸しにするためなのである。
花は、パイプを設置したかなり後につけられたらしい。
カモフラージュのために。


萩之茶屋小学校の横に立つ建物、ここも昔、小学校の校舎だった。
しかし、ここは住民登録のない子供たち用の校舎。
借金などで逃れてきた人々は住民登録をすると居場所がばれてしまうので、
住民登録することができなかった。なので、子供は学校に行けなかった。
そんな子供たちが300人ほどいて、それはひどかろうということで、
この校舎が建てられた。
萩之茶屋小学校にも1000人ほどの生徒がいたが、今の全校生徒数は70人。
大阪市がここは子供が住むべきところではないということで、
公営住宅をつくり家族のいる家庭はどんどんそこに住まわせた結果である。





ツアーの最後にたどり着いたのはシェルターといわれるところ。
宿がない人が泊まれることができる簡易宿泊施設。
まるで映画『フルメタルジャケット』の兵営地のようである。

濃厚の釜ヶ崎ツアー。
炎天下の中、4時間ぶっ通しというハードなツアーだったが、
時を忘れるほどの充実の内容であった。

釜ヶ崎のおっさんたちは
朝あいりんセンターに行き、昼働き、夜はドヤで寝る。
仕事のない人は、その辺で飲むか、あいりんセンターで休むか、何か。
釜ヶ崎という町がどういう仕組みで回っているか理解できた。

大きな誤解がとけた。
このあたりの人はすべてがホームレスだと思っていた。
そうではない。
みんな労働をして暮らし、安いながらも屋根のあるところで
寝泊まりをしてその日を暮らしている。
その中の一部の人がブルーテントで寝たり、
その辺で寝ていたりと、いわゆるホームレスなわけである。

三重の柵もそうであるし、先ほどの日払いアパートといい、
すべては行政と民とのいたちごっこ。
ある法律ができれば、誰かが抜け穴をみつける。
それが100年以上続いてきた町が釜ヶ崎なのかもしれない。
みな、行政に追い立てられつつも、行政をちゃっかり利用している。
行政も、いろいろと迫害をしつつも補助もしている。

「ぼくがきた70年代に比べてはるかに状況はよくなっとるねー」
と水野さん。労働者が団結して権利を勝ち取った結果が今にある。

さて、釜ヶ崎のお勉強を終えたぼくは、
カマソニ本番へと繰り出したのであった。(つづく)








0 件のコメント: